「私たちは何を見るべきか?」― ラザロと金持ちの譬え話から ―
今朝は福音書から「金持ちとラザロ」という譬え話を紹介します。(ルカ16章19〜30節)。登場人物の一人は金持ちで、何不自由のない生活を送っていました。もう一人はラザロという貧しい人、彼は金持ちの邸宅の前に佇み食べ物のおこぼれをもらおうとしていました。残念ながらラザロは何ももらえなかったようです。やがて二人とも亡くなります。ラザロは天国へ、金持ちは地獄に落とされてしまいました。
ここで一つ疑問が生じます。「なぜ金持ちは地獄に落とされてしまったのか?」
彼は決して悪いことをしたわけではありません。では「金持ちはすべからく地獄に落ちるべきだ!」とイエス様は言いたかったのでしょうか? そうではないでしょう。
この譬え話のポイントは、イエス様の視線の中に、金持ちの視線が“入れ子状態”になっていることに注目すると見えてきます。金持ちは何を見ていたのか。あるいは、正確に言えば、何を見ていなかったのか。金持ちの視界の先には確かにラザロがいました。しかし、視界に入っていたとしても、金持ちにとってラザロは意味のない透明な存在でした。そうなのです。これこそが金持ちが地獄に落ちた理由なのです。金持ちは、貧しいラザロに気づかなかっただけ。けれどもイエス様は「目の前の人の必要に気づかず、見ようともせず、結果何もしなかった」ことを非難します。それが分かれば「金持ちであること」「地獄に落ちた」という部分はむしろ忘れてしまってよいのです。
「この世界の中で、あなたが本当に見るべきものは何か?」これがイエス様の問いです。そしてサレジオ学院での日々はこの問いに答える場です。ボランティア活動やCSの授業は皆さんにとって「サレジアンとしての視線」を持つチャンス、自分の召命を発見するチャンスなのです。
