教皇選挙に見える教会の本当の姿
朝のはなし
先日の教皇選挙でプロヴォスト枢機卿が選出されレオ14世という教皇名を選びました。「コンクラーベ」という単語が有名になりましたが、これは「鍵をかける」というラテン語で外界と接触を絶って真摯に神の意思を聞くという選挙の精神を具現化したシステムです。
さて報道の中では誤解されるようなニュアンスを含んだ情報もあったので、それを3つばかり紹介しましょう。
その1「「133名の枢機卿の間で争われる」
教皇選挙は「我こそは」と手を挙げて争う立候補制ではありません。教皇は「僕の僕」、つまり全ての人につかえ、教会を一番下で支える人です。僕になるなんてあまりやりたくない仕事ですね。フランシスコ教皇が教会の中の不正を正し、自然破壊や貧困を生み出す政治・経済を糾弾し疎まれていたことを見るにつけて「誰がそんな損な役回りをやりたいと思うか」というのが正直なところです。
その2「次の教皇は革新派か保守派か?」
確かに教会の中に保守派と革新派の間にある種の緊張関係もあります。しかし教会はまず「常に刷新されるべき」存在です。なぜでしょうか?教会が限界のある人間、罪人によって構成されているからです。いつも謙虚に悔い改めるという意味で教会は革新的であるべきです。
一方で教会は神様によって建てられたということも信じています。教会は信仰の内容をしっかり保とうとします。教会は神様の道具なので、神様ご自身が正しい道を示してくださるということを信じています。この意味で教会は保守的あるべきです。つまり教会は保守であり革新でもあるわけです。
その3「有力候補は12名」
確かに有力視された枢機卿はいましたがプロヴォスト枢機卿はその中にいませんでした。神様の計らいは下馬票、ちっぽけな人間の浅知恵を超えます。神様から見て一番相応しい人が選ばれる、それが教皇選挙です。ベルゴリオ枢機卿、のちのフランシスコ教皇も選挙前には有力候補とは見なされていませんでした。「ベリゴリオ?誰?」と思われた彼が伝統を重んじつつ必要な改革に着手したこと自体時宜に適った神様の意思が読み取れます。
神様に忠実に、そして貧しい人々の側に立ったフランシスコ教皇は立派にその責務を果たし神様の懐に旅立ちました。そしてその後に続くのがレオ14世です。新しい教皇のために祈りましょう。
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