最近気づいたこと。「飛沫って、“ひまつ”以外にも“しぶき”って読み方があったよな」と思って調べてみました。すると、いろいろな読み方があり(自分で調べてみよう)、極めつけは“とばっちり”という読み方。新鮮な驚きとともにチョッと考えさせられました。(“とばっちり”には、通常、違う漢字が当てられるので、意味と一緒に調べておこう。)なぜ飛沫にとばっちりという音を当てるようになったのか、また、とばっちりという語の意味がなぜ、どのようにして変わってきたのかを考えたとき、人間の心の弱さと課題点が見え隠れしてきたのです。

 

「飛沫感染」…これを避けるための徹底性には、人によって温度差があるようです。(もちろん接触感染等も同様ですが、ここでは“飛沫”をテーマにしているのでお目こぼし願います。)そして、高い意識をもって行動している人々は、自分たちより意識の低い人々に対して義憤を感じているのではないでしょうか。感染が拡大していくことが、丁度こうした人々からの「とばっちり」であるかのように感じている人もいることでしょう。(実際、そのような一面があることも否定できません。)

 

ここで、何が人の心の弱さであり課題であるのかを確認しておきましょう。

 

「怒りを覚えること」と「人を裁くこと」は少しも問題解決や物事の改善に向かうものではない…、ということを(たとえそれが義憤であったとしても)人は怒りと共に忘れてしまうのです。怒りを感じることは、それ自体仕方のない部分があります。簡単に言えば、人間はそのように造られています。しかし、人を裁くことは「自分の怒りを正当化する行為」です。「怒りをコントロールし、改めて問題解決に尽力しよう」という気概を打ち捨てる、言ってみれば「人のせい」にすることです。問題解決のイニシアティブ(主導権)を「自分より意識の低い(と思える)人々」の手に委ねてしまって良いのでしょうか。「せめて私(だけ)は」という言葉でごまかしてしまって良いものでしょうか。

 

大切なのは「裁くこと」ではなく「愛すること」。人を愛すれば、その人とのかかわり方も分かってきます。その人たちも私たちに心を開いてくれるようになります。「迷惑だから要求する」態度よりも「大切だから苦言を呈する」方が聞き入れられ易いように、「相手を尊重する」ところから始めて、「過ちを赦す姿勢」を持ちつつ「共に解決・改善」していくよう寄り添う。平安の中にある時には、だれもが認める理想的な態度ですが、怒りを感じてるときにはすっかり抜け落ちてしまいます。(人は怒りを感じているときには知能指数が下がっている。…本当でしょうか?)

 

放送ではないので、長くてすみません。結論です。何度でも言います。「怒りを抱く権利」というものがあるとしても、権利であれば打ち捨ててしまうことができます。本人の決断次第です。一方で、キリスト教では愛し合うことが命じられています。「愛することは義務」と言い換えても良いでしょう。義務であれば、打ち捨てることまかりなりません。そして、もし両者が相容れないとしたら、どちらを選択すべきか、明白ですね。ウィルスvs人類の戦い。仲間割れしている時ではありません。

 

裁かずに愛する。…ええ、難しいですよ。でも、だからこそ「神の力」が期待できるのです。