神様の「オリジナル」を生きる女子生徒
今月は聖カルロ・アクーティスの言葉を耳にする機会が多かったですね。
「人はオリジナルとして生まれるが、多くの人はコピーとして死んでいく。」
オリジナルとコピーという対句の響きには、強いインパクトがあります。榎本神父は、オリジナルは「内発的」、コピーは「外圧的」と捉え直していました。オリジナルとは、神様に導かれ、自分の心の中から自然に湧き上がる思いに従って生きること。一方コピーとは、いわゆる即物的な文化の同調圧力――「これが当たり前」という空気や、ネットでの“いいねボタン”のメンタリティに流されてしまう生き方のことです。コピーであることに抗い、オリジナルであり続けるためにはどうしたらいいか。それは、「自分が見ている世界の中で、何に焦点を当て、どう関わるのか?」と問うことだと思います。
先日、横浜駅近くの私学会館へ行ったときのことです。私の前を一人の女子生徒が歩いていました。彼女は建物のドアの前で、杖をついたご老人のためにドアを手で支え、「どうぞ」と招き入れたのです。その姿はとても自然で、「さりげない善意」とはまさにこのことだと感じました。ご老人のためにそっとドアを支え、通す。その一瞬の中に、「あなたは何を見て、どうするのか?」という問いへの彼女なりの答えがあったように思います。もちろん、彼女自身はそんな問いすら意識していなかったでしょうが。周囲の視線や強制ではなく、自分の中の“当たり前”として行動していた――その姿に、私は彼女のオリジナルを感じました。ほんの数秒の出来事でしたが、その中に彼女のこれまでの人生、そしてこれからの生き方までもが表れているように思えたのです。「自分にとっての当たり前」という内発的な思いに基づいて行動する。そのミッションスクールの女子生徒の姿に、オリジナルな人間としての在り方、そしてイエス様から遣わされた愛弟子の姿を見たように感じました。
