まず先日の西日本の豪雨によって被災された方、亡くなられた方、家族を失った方の為に「主の祈り」を捧げましょう。
さて今日は2つの話をしたいと思います。
1点目は今年の世界のサレジオ会のスローガン「主よ、その水を飲ませてください」です。前回は体育祭前ということで、「水が湧き出るときには最後に一掘りまでわからない、だから最後まで諦めずに頑張ろう!」というメッセージを伝えました。今回はさらに掘り進んでいきたいと思います。このイラストはアマゾン川の地下の断面図ですが、ある調査によるとアマゾン川の地下には地上のアマゾン川の規模を超える地下水脈が流れているということです。地上にほとばしり出る水、水をたたえる井戸の下には必ず地下水脈があります。逆に水脈が変われば井戸は枯れてしまいます。「井戸は地下水脈につながっている」ということはこのサレジオのスローガンにおいても大切なことです。「主よ、その水をください」という言葉は皆さん知っている通り聖書の言葉ですから、この「水」とは特別な水、イエス様がわたしたち示す「生きるべき道の方向性」を表しています。「主よ、その水をください」とは、イエス様の生き方を知り、それにインスピレーションを得ながらそのように生きいくことです。サレジオ生として「目の前の苦しむ人に手を差し伸べる」ようになるために、イエス様の生き方を知り、学ぶこと、つまりイエス様につながっていることが必要です。地下水脈はこのようにイエス様その人を示しているシンボルです。地下水脈がイエス様なら、井戸とは私たちのシンボルです。そもそも「井戸」は人や家畜が乾きを癒すため、あるいは「命をつないでいくため」のもの、「井戸」とは渇くものに水を寛大に提供する存在です。井戸とは徹頭徹尾「他者」のためだから、「この水はおれのものだ!」と主張するなら井戸は存在意義を失ってしまいます。「井戸」はわたしたちがイエス様から遣わされ「他者のために」奉仕することに招かれている存在だということを示しています。それを別の言葉で「召命」と言います。「イエス様につながり他者へ開かれていく私たち」を示すもう一つの聖書の箇所があります。最初のポイントを締めくくるに当たってヨハネ7章の言葉を差し上げます。「渇いている人はだれでも私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
2つめの話は「君だったら最後の10分間をどう闘う?」です。これでわかると思いますね、なんの話か。ワールドカップ日本代表の試合の中でも意見が別れるポーランド戦のことです。自分が試合の直後に感じたこと、それはサッカーそのもののことではなく、「唯一の正解のない状況で自分なりの答えを出さなければならないことがある」ということでした。「どうポーランド戦を闘うべき(だった)か?」この問いほど唯一の正解はない問いも少ないのではないでしょうか。たくさんある不確定要素の中で自分たちがコントロールできる部分で最も良い選択肢を選んだ西野監督の結論が試合の終盤の作戦だったのでしょう。試合の勝敗、あるいはそれをふまえた日本国内外の評価も覚悟しての文字取り「腹を括った」決断、つまり最適解だったのでしょう。試合後のインタビューでの監督の表情が印象的でした。しかし事実としてあるのは西野監督の作戦を選手が遂行し、その結果日本代表は決勝トーナメントに進出したということです。それ以降、西野監督のゲームプランに対して賛否両論、様々な人がそれぞれの切り口から語っていますが、それこそが「どう闘うべき(だったか)?」という問いに唯一の正解がないことを物語っているでしょう。ということで唯一解のないこの問いに対してあえて皆さんに「君はどの意見に賛成?」あるいはもっと大胆に「君が監督だったらどんな作戦をとる?」と聞いてみたらおもしろいなと思います。それは「唯一解のない」中で自分なりに納得のいく「最適解」を出すという練習になるからです。当然「最適解」には「なぜそう思うか」という理由も必要です。「何を優先するのか?」、「何を大切にするのか?」という問いに対する自分なりの答えです。さらにその理由には一定の根拠も必要でしょう。収集した様々な情報・意見を客観的に比較検討し、論点整理をして、感情に流されずに自分としての一つの結論を出してみてください。こういったことは実は普段の勉強(多くの場合「唯一解」を求める作業に終始しているでしょう)の延長上にある「知的な労作」の機会となるはずです。
先日の高校1年生も「唯一解のない問い」に応えるため「サレジオ改革」と題する活動をしました。今日はその中で5つのグループにここで話をして来ます。皆さんも彼らの発表を聞いてみてください。
さぁ夏休ももうすぐです。いろんな経験ができる時間です。「唯一解」の世界から飛び出し、「最適解」を求める旅に出てみてはいかがでしょうか。