先日の2月8日は、サレジオ会が日本に初上陸した記念日になります。日本への宣教が実施されたのは、海外宣教50周年記念の一環でした。しかし、日本宣教計画は、晩年のドン・ボスコが発案しており、自分では実行できないので、後継者たちに、その夢を託したのです。

 

事の始まりは、1862年6月5日でした。この日に、日本26聖人殉教者の列聖式がピオ9世教皇の司式で行われました。この列聖式のニュースはヨーロッパ中に広がっていきました。自分たちの想像を超えた場所に、キリスト教徒がいて、更に信仰を守り通した人々がいることに驚いたのです。このニュースに触れた人々の中には、日本宣教を考えた人たちがいました。そのうちの一人がドン・ボスコでした。彼は「高い山と都と言う町がある国に宣教に行くだろう」という夢を見ていて、この夢を後継者に託しました。それは、サレジオ会にとって大きな記念の年に実行されたのです。

 

1925年12月にジェノバ港からドイツ船フルダ号に、チマッティ神父を団長に、3人の修道士と6人の神父が第1回宣教団として、出発しました。サレジオ会は中国まで宣教していましたが、日本の地に足を付けたことがありません。どのような言語でどのような習慣があるのか、誰も知らなかったのです。幸いに、船の中で一人の日本人と出会い、彼から日本語と日本の風習を学びます。その大きな違いに、かなり戸惑ったようです。

 

今から92年前の1926年2月8日に門司港に着きます。当時、九州を管理していたのが長崎司教だったので、長崎に行き挨拶をして、更にカトリックの学校や神学校、社会福祉法人の施設などを見学し、自分たちの使命を再確認しています。その後、特急列車に乗って、2月18日に宮崎駅に到着し、宮崎教会にたどり着きます。日本語の勉強をして、1927年に宮崎、大分、中津の各教会に赴任し、それぞれの場所でサレジオ会の事業を展開していったのです。1935年には東京に進出してきます。1960年碑文谷サレジオ教会の敷地内で中学校が産声を上げ、現在はサレジオ学院として歩んでいます。

 

もし、あの時、日本の殉教者の列聖式が無かったら、日本への足掛かりはもっと遅れた事でしょう。日本のサレジオ会は2月8日と2月18日を日本宣教の始まりとして、大切にしています。