普段はバイタリティにあふれたサレジアンに向けて話をしているので、「榎本神父は高い要求をしてくる人だ」と思っている人がいるかも知れません。まあ、間違ってはいませんが、「いつも」というわけではないのです。

 

勇気を出して相談に訪れた人に対し、「あなたはここが間違っているから、まず、これを改めなさい」などと正論を打ってみせたところで、何の解決にもなりません。必要なのは正論ではなく癒しなのですから。

 

意外と知られていないようですが、キリスト教の世界では、時として「正義」を「愛」の対立概念ととらえる向きがあります。人は、正しい事を主張されると反論が出来ません。しかし、正しい事を理解しているからと言って、必ずしもそれを実行できないのが人間ですから、正義を強く主張されると、まるで自分が責められているようで居心地が悪い。イライラする。そこで、このように人を追い込み、人を裁く姿勢が、愛とは対極にある・・・と指摘されているのです。

 

教会も、正義を主張したり、高い要求をしたり、理想を求めたりする場面がありますが、一方で、打ちのめされている人々への配慮を、決して忘れません。キリストは、自らの手を汚さずに綺麗事を並べたりはしないからです。「私が来たのは正しい人を招くためではない(マタイ9章13節)」とはキリスト自身の言葉。正しくあることよりも先に、求められているものがあるのです。