日本人は外国の文化や技術を取り込んで、自分たちなりのアレンジを加え、新しいものに作り変えていくことが得意な民族といわれています。分かりやすい例を挙げますと、ポルトガルの宣教師が持ち込んだ遊戯用のcarta=cardに日本的な要素を盛り込んで、いわゆる「かるた」という新しい文化を生み出した。あるいは「カレーパン」の存在。最近では「和楽器ロックバンド」など。
  
では、キリスト教はどうでしょうか。「日本にキリスト教は馴染まない」と分析する人たちがいます。それが本当だとしたら、それは何故でしょう。私は、キリストの教えが日本風にアレンジされるのをキリスト教の側が拒否してきたからでは・・・と疑っています。もちろん、キリストの教えそのもの変えられては困るわけですが、その本質を変えずに表現方法や強調点を変えることで、日本人に理解しやすく、日本人の心に響くように伝えられたはずです。しかし、現実は依然として西洋的のままでした。
  
これに違和感を覚えたのが遠藤周作という人です。彼は、日本人としてキリスト教に向き合い、文学作品を多く残しています。そして、代表作である『沈黙』がハリウッド映画となって(サレジオ学院の周辺では)今週末に封切られます。皆さんには、是非鑑賞して欲しいと思っていますが、歴史的背景などの予備知識を備えていくようにしてください。
   
また、一つだけ課題を出させてください。命を懸けて信念を貫くことは賞賛に値しますが、それができなかった人に対して、あなたは何を思うのでしょう。神はあなたに何を望まれるのでしょうか。