自分の不完全さの中に神様の愛を感じる

『創世記』によれば、人は神に似せて造られています。

しかし、神の完全性に比して人間はなんと不完全なものでしょう。

この不完全さが人間に多くの苦しみをもたらします。

時には神を呪って

「どうして私を、…私だけをこんなに不完全にお造りになったのですか」と叫びたくなる、

そんな経験はありませんか。

走るのが遅い、絵が描けない、歌が歌えない、もの覚えが悪い、

優しくなれない、見た目が榎本神父に似ている…。

 

しかし、ちょっと考えて見てください。

完全な人は、…もしもそんな人が居るならば…ですが、成長することができません。

もし人が完全なら、成長する喜びもなければ、助け合う喜びも持てないのです。

サレジアンならば理解できると思いますが、人を助けることには喜びが伴います。

しかし、助けられた経験の無い人は、その喜びの意味を半分以上理解できない。

慰霊祭の時に

「手を差し延べる行為と、差し延べられた手を掴み取る行為は一つのものである」

と話したのを思い出してください。

 

神が私たちを造られたとき、私たちを不完全なものとしてお造りになりました。

そこに神の秘密があります。

私たちは、成長していくように、…神の完全性に近づくように造られています。

しかも、一人では決して完成に至らないように、わざわざ、協力し合い、

支え合いながらでなければ立ち行かないように仕組まれてさえいるのです。

これは私たちを愛されている「神からの祝福」と言っていい。

私たちが不完全なのは、「呪われているから」ではなく、

「愛されているから」に間違いありません。

私たちが神に似ているのは、完全性ではなく、交わりをもつことにあるのです。

日々、成長していきましょう。

そして、試験準備、頑張ってください!