聖書には、生まれつき目の見えない人が癒されるという奇蹟が描かれていますが、現代人は必ずしも奇蹟を必要としません。300ドルの手術費さえ出せば、半数の先天的盲人が治るそうです。ただ「300ドル貯めることこそが奇蹟だ!」という人々も多くいますが…。

 

 ところで、先天的盲目から回復した人は、当初「目の前に見えているりんごが、りんごであることに気付かない」という話、聞いたことがあるでしょうか。視覚以外ではりんごを認識できても、初めて見るその外観についてはデータが無い。だから、目の前のソレに手を触れるまでは「りんごという体験」と「目の前にあるりんご」とが繋がらないのです。つまり、知識と体験とが出会うまで、本当の理解には至らないということ。食ものが無い人々がいるとか、300ドル捻出するのが奇蹟に等しいとか、手を差し伸べる勇気とか、力を合わせる喜びとか…、体験するまでは何も分かっていない。

 

 反対に、体育祭で全力を出し切った先輩たちは、サレジオの体育祭の素晴らしさを知り尽くしている。だからこそ「一緒に頑張ろう!」と後輩を励ますことができるのです。昨今では、操作された「口コミ」とかいう得体の知れないモノも氾濫していますが、誰が真実を語っているかくらいは分かるようになりましょう。君たちは、信頼のおける先輩を持っているし、そのような先輩になっていくのですから。