2023年12月18日

あさひをあびて反射する宣教師の頭の輝き——死の舞踏を乗り越えて

中学時代に死の恐怖におびえました。そして高校時代に澁澤龍彦の「六道の辻」(『唐草物語』河出書房新社、1981年所載)を読み、「真壁踊り」に大いに興味をいきました。室町時代に流行した舞踏の話題です。日本の室町時代と同時期の西欧では「ダンス・マカーブル」が流行していました。つまり不気味な踊り、あるいは死の舞踏。黒死病(ペスト)の流行とともに、王族から庶民にいたるまで、あらゆる人がのたうちまわって死を恐れた様子が伝わります。こうして、死への恐怖は、美術・音楽・文学・演劇などあらゆるジャンルの藝術創作にも影響をおよぼしました。いかなる身分であれ、人は必ず死にます。決して死をまぬかれる者はいません。自分が死ぬとわかったとき、人は半狂乱となります。取り乱す様子は、まるで踊り狂う阿呆。いかんともしがたい現実を前にして。

 

さて、もう十年ぐらい、「死の舞踏」という曲を繰り返し聴いています。アンリ・カザリスの奇怪なる詩を読んで着想を得たカミーユ・サン=サーンスによる交響詩が「死の舞踏」(Danse Macabre;歌曲1872年、1874年管弦楽曲)です。夜中の十二時になると墓の奥底から多数の骸骨たちが這い出して、騒々しく踊り狂います。そして鶏が鳴く朝の訪れとともに、骸骨たちは、なりを潜めます。墓は静寂を取り戻します。単純なイメージを情感豊かに展開させるサン=サーンスの音創りのセンス良さは見事です。

 

なぜに死がこわいのでしょうか。自分が消えて無くなる、親しき人びとが消えて無くなる、そういう虚無の現実におびえるからなのでしょう。中学時代に夕暮れどきの部屋の窓から外の景色を眺めて、ふとさびしくなり、すべてが虚無の底に吸い込まれるような「行き止まり」の感触を身に覚えました。あまりにも息苦しく、いたたまれなかったのです。

 

しかし1981年の朝、川崎サレジオ中学校(現サレジオ学院中学校)に着くと、イタリア人司祭が生徒たちとサッカーに興じていました。明るく。あさひをあびて反射する宣教師の頭の輝きを私は決して忘れません。そして、亡くなった方々を慰霊して祈る行事を毎年11月に繰り返すカトリック教会の伝統の尊さをも心に留め続けるのでしょう。