2023年06月23日

キース・ジャレット『The Melody at Night, with You』という作品

1996年秋、ピアニストのキース・ジャレット(註1)は突然何もできなくなりました。一日中、庭の芝生を眺めてボーッと座るだけの毎日。慢性疲労症候群という病気になったのです。几帳面で神経質なキースは完璧な演奏をするために強いストレスに押し潰されました。

 

それまでは世界を駆け巡ってリサイタルをつづけて大活躍していたピアニストの心は固まり、無気力状態のまま、両手両足もしびれて硬直し、ひとりでは食事もできないほどでした。ピアノのふたは閉められたままとなりました。妻のローズ=アンは親切な言葉をときおりさしはさみつつも微笑みを絶やすことなく丁寧に忍耐強く夫の世話をつづけました。

 

1998年にキースは妻に感謝したいと強く望んで、心からの贈りものを準備する決意をしました。力をふりしぼって、毎日、自宅のスタジオにこもってピアノをひく努力を積み重ねました。それでもすぐに力尽きて、再び何もできないまま数ヶ月が過ぎることもありました。しかしキースは妻への想いを心の中で歌うように響かせながら少しずつ録音をためてゆき、ついに一枚のアルバムを完成させました。クリスマスに、キースは妻に「ほんとうにありがとう」と心からの感謝を述べて、リボン付きの箱を手渡しました。箱の中には、愛する妻のためだけに制作した愛情深いピアノ演奏の録音テープが入っていました。

 

1999年、妻は夫からの贈りものを自分だけで独占したくはないと考え、困難をかかえるあらゆる人にも贈ろうと思いたちました。こうして『The Melody at Night, with You』(ECMレコード、1999年発売)[つらき闇夜に心の歌を、あなたとともに/クリスマスの夜にあなたに捧げる心の歌]という作品が世に広まりました。 ピアノだけで純粋な気持ちを丁寧につづるキースの演奏は愛情深い妻を心から大切に想う祈りのうねりを創り出しました。たどたどしく音をつむぐ、キースの愛情表現は、今日も、さまざまな苦しみにさいなまれる人の心の支えとなっています。

 

人間はストレスによって潰れます。しかし、そばに大切な相手がいっしょにいて、想いをこめて支えてくれるのを実感するときに感謝の気持ちが高まり、贈りものを捧げたくなることで生きる気力が湧き起こり、立ち直れます。再び生き始める、復活の現実が生じます。

 

(註1)アメリカ合衆国で生まれたKeith Jarrett(1945年-)はクラシックのピアノ演奏の技術を身につけてからジャズ・ピアノ奏者としても作曲家としても世界的なリサイタル旅行をつづけて活躍しています。即興で30分以上の長大な曲をひくこともあるほどの自由人ですが、緻密な構成の作曲を心がけ、常人には予想もできないような独特なメロディーをつむぎだしています。しかもバッハやヘンデルやショスタコーヴィチの楽曲の演奏もこなす実力者でもあります。なお、『The Melody at Night, with You』というCDの題名を個人的に翻訳し、「つらき闇夜に心の歌を、あなたとともに」あるいは「クリスマスの夜にあなたに捧げる心の歌」としましたが、まだ定まった公式訳はありません。