自分騙し

随分前のことですが、とある被災地を訪れたテレビ局のクルーが、被災者たちにインタビューをしていました。

今日は、その中でとても印象的だった遣り取りを紹介したいと思います。

 

一通りの質問を終えた後、インタビュアーはその女性に問いかけました。
「ところで、あなたは神に信頼していますか?」

すると彼女は、しっかりとした口調で

「はい、私は神を信じています」

と答えます。

「では、神が、今あなた方がおかれているこの悲惨な状況に対して救いの手を差し延べてくれると、本気で信じているのですか?」

「はい。」

「しかし、現実には厳しい状況が続いていますよね?」

インタビュアーがこう言ったのは、この地域への救援物資の到着が特に遅れていたからです。彼女は答えます。

「神は私たちを救おうと、既に多くの人々に囁きかけられました。しかし、誰かがその呼びかけに耳を塞いでいる。

…だから神の恵みが私たちのところまで届かないのです。」

言い終えた彼女は インタビュアーの目をじっと覗き込み、そこでインタビューが終わりました。

 

神が人々の叫びを聞き容れられるとき、多くの場合、他の人々の手を通して恵みをお与えになります。

ですから、神の恵みを伝えるべき人々が各々の役割を放棄してしまうと、それはまるで、神が何も心に掛けて下さっていないかのような、悲しい結末を招いてしまいます。

苦しみの中にあって「神は何もしてくれない」と嘆き悲しむ人がいたとしたら、その責任は私たち一人ひとりにあるかも知れないのです。

 

世の中には、挨拶をされても、自分に呼び掛けられていると思おうとしない人たちがいます。

また、「人の心を思い遣りましょう」と言うような言葉を耳にしても、自分に呼び掛けられていると思おうとしない人たちがいます。

ゴミが落ちているのが目に入っても見ようとしない人・マナー違反の行動の結果を考えようとしない人・目の前にいない人は存在しないと思い込もうとしている人…このような人々が、あるいは、私たちがもしこのように振る舞うとしたら、そのとき、神の愛は死んだものと人々の目には映るでしょう。

神が死ぬとしたら、人が生きられる道理はありません。

せめて私たちは、もう自分を騙すのは止めよう。

 

「未来は今日始まるのです。」(ヨハネ・パウロ二世)

 

榎本飛里