朝の話|鳥越校長

2026年04月10日

1学期始業式の話

 今年のストレンナ「すすんで仕える者になろう」ですが、「仕える」という言葉の印象は、ちょっと違和感を感じるかもしれませんね。「自分、別に奴隷や奉公人じゃないし」そもそも誰に仕えるの?と「???」が飛び交うはず。なんか今年の年間目標は難しそうですね。

 似ている単語のボランティアだと、もう少しサレジオの日常、みなさんのメンタリティに近づいてきたでしょうか。ボランティアやってもいいかもと思っている人もいるでしょう。実際CSでいい体験をしたと思う人、クリスマス街頭募金、ジャグリングボランティアに参加してる人も数多くいます。

 さらにイエス様、キリスト教と奉仕、ボランティアを結びつけて考える人もいるでしょう。実は「仕える」というこの表現かなりコアなキリスト教的文脈の表現です。だからなんとなく「仕える」ことの意味がイエスキリストがむすびついた時点でもう一般的社会通念を超えてしまっている、みなさんは日本社会ではマイノリティなんですよ。

 ちょっと視点を変えてみましょう。ある状況とその時の自分の気持ちに焦点を当てると、その人への思いや自分の自然な行動が結果的に優しさや思いやりと結びついていることもわかるでしょう。先日、北山田の駅の近くのパン屋さんの交差点、サレジオ生が横断歩道を渡ろうとしていました。そこへ救急車がやってきました。彼は自分の方が青信号なのに咄嗟に救急車に道を譲りました。それが本当に自然な感じで。お〜心もイケメン!と思いました。これって当たり前?いや〜世の中的には当たり前じゃないんですよ。車はまだしも、歩行者は傍若無人。救急車に道を譲らない歩行者の動画が Youtubeに上がっています。でもサレジアンは自然にできる。サレジアンのクオリティの高さを感じました。学校には近隣からのお叱りの電話もくるけれど、サレジアンの近隣の人への親切の感謝の電話も時々あります。道に迷ったお年寄りを助けた。たまたまなぜか持っていた携帯で警察に連絡をとった。このような例は別に奉仕だ、とか義務だとかで動いたのではなく、ほとんど自然に心が動くままに体が反応した例でしょう。理屈抜きの咄嗟の気持ち。同時に相手の気持ちが分かる、これが実は「仕える」「ボランティア」の根底にあるわけです。

 振り返ると自分にも同じ辛い気持ち、不安な体験が前にあったからこそ、相手の苦しさ、辛さも共有できます。みなさんも自分を振り返って、誰かに寄り添ってもらった思い出があるでしょう。

 ここでアイナジエンドさんの「スイカ」という曲を紹介しましょう。


 周囲と合わないくて居心地が悪く感じている人の気持ちを歌った歌だと思います。居心地が悪い、ここにいたくない、嫌いな自分を持っている人の声が聞こえてきます。

 一番から二番への歌詞では「うるさい街並み染まってく」から「うるさい街並みを蹴飛ばした」へ変化しています。違和感を感じる周囲からあえて少し距離を置けるようになったのでしょう。なぜ?それはきっと聞いてくれる人がいたから。

「それだけでいい」「それがいい」

 そんな経験があっての言葉、いい表現ですね。アイナジエンドさん自身の気持ち、体験を歌っているかもですね。

 そして「スイカの種」 . . . スイカの種を出すのはごく日常の風景。誰も種のことなんて気にしない。別に悪気があるわけでもないでしょう。でもペッと吐き出される側の気持ちなってみるとまた違った心象風景が見てきます。あえて「種の気持ち」と捉え直せるアイナジエンドさんの感性、世界観はすごいと思います。この曲は最後に、誰かの苦しみに寄り添ってそっとその人の苦しみを聞いてあげてほしい、というメッセージで締めくくられているのではないでしょうか。

 いらないと吐き出される種に思いを重ねて、お前はいらない、と言われていると感じている誰かの気持ちを慮ること。僕たちはスイカの種をプッと吐き出す側でしょうか?あるいはスイカの種の側でしょうか?周りにスイカの種に自分を重ねている人がいるかもしれません。その人のことを慮る、見えている風景の向こうにあるその人の気持ちを汲み取ること。これが本当は「仕える」という言葉の根っこにある気持ちだと思います。

 ちなみにストレンナの左側のイラストの絵の背景を説明できる人はいますか?いたらコンビニの100円割引券を差し上げます!

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