現代社会にUniformity でなく Unityの価値を示す三位一体の神様

おはようございます。皆さんは祈る時「父と子と聖霊のみ名によって」と十字を切って始めますから、キリスト教の神様は三位一体の神だと知っていますね。

 

教会の暦では先週、復活したイエス様が天国の父の元に帰った後、聖霊が使徒たちに降り教会の宣教活動が始まったことを記念し、そして次の日曜は三位一体を記念します。なので今日は三位一体について考えてみましょう。

 

そもそも何でキリスト教では「三位一体」、三なんだけど一、一なんだけど三という面倒い教えを信じているのでしょうか?三人の神様の多神教か、完全に一人の神様を信じる一神教にすればそちらの方がはるかに分かりやすいにも関わらずです。

 

この分かりにくい三位一体を教会では2000年間哲学的に理屈で説明しようとしてきました。確かにその営みは大切なことですが、三位一体をもう少し違った視点で考えると、実は争いと憎しみに満ちた世界に希望を与えるきっかけになるかもしれません。

 

争いと分断を乗り越えるためによくこのように言われます。皆さん聞いたことありますよね。

「Uniformity(画一性)でなくUnity (一致)を。」

「多様性の豊かさは共同体の絆を深める。」

「『受ける』ことより『与える』ことの方が大切。」

 

「そうだよな〜」と思えるでしょう?実はこういった価値観を支えるのが三位一体です。「相手が自分と違っていても一致できる」、「与えることによって相手だけでなく自分も豊かになれる」、これを三位一体の神様は自らのあり方によって示しているのです。

 

理屈としての三位一体を人々に説得しようとしても、おそらく世界は変わらないでしょう。でも「バラバラになっている世界は一つになれるはず。だって神様は三位一体だから」と言えば、それは希望の源とアクションへのエネルギーとなりえます。キリスト教は希望の宗教だという理由はこんなところにもあるわけです。

 

IMG_1662