今週「灰の水曜日」を迎え、教会の暦では「四旬節」に入りました。キリスト教最大の祝祭、「復活祭」に向けた準備の期間です。この間、キリスト者は「祈り・断食(≒節制)・施し(=チャリティ)」に励むことを通して、居住まいを正して自らを省み、本来の自分を取り戻し、神に立ち返るよう努めます。今回は、この「祈り・断食・施し」のうち、祈りについてお話します。

 

 日本人の中には、とくに真面目な人に多いのですが、祈るという行為に若干の嫌悪感を抱く人がいます。「自分のために祈る暇があったら少しは努力しろ!」とか「人のために祈る暇があったら手を差し伸べろ!」、あるいは「祈りは人間の弱さを助長するから嫌いだ」とか「公平であるべき勝負事において、自分だけ抜け駆けしようとする態度がいけ好かない」など。ところが、こういった意見の多くは「真の祈り」を誤解しています。あるいは、「偽りの祈り」に対する批判と言い換えても良いでしょう。

 

 祈りとは「ご利益(りやく)」を引き出そうとするもの。それだけが祈りだという錯覚。また、祈りによって現実を変えることなど出来ない。よって祈ることは時間の無駄だ…という合理的思考。どちらも限られた世界においては真実に見えるかも知れません。しかし実際、祈りには世界を変える力があるのです。真剣に取り組めば分かることですが、祈りは人を変えます。人が変われば、世界が変わり始める。誰かのために祈るということは、変えられていく自分を受け入れるということ。自分の心に広がりを持たせ、深みを増すということ。自分にとって価値のあるものを増やし、さらに大きな価値を見出していくということ。…祈りは心の成長因子なのです。

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