想像してみてください。今、あなたの家庭に経済力が無くて学校に通えないとしたらどうしますか?

 

今のサレジアンであれば、おそらく誰一人として街角に立ち「お金が必要です。助けてください!」と叫ぶ人はいないでしょう。私がフィリピンやイタリアで見かけた「物乞いをする少年たち」も、決して声を張り上げて助けを求めたりはしていませんでした。多くの人々が目をそらして通り過ぎる中、敢えて彼らに視線を向ける私に「目で訴えかけてくる」のがやっとの様子です。

 

一方、先月、ウクライナでの人道支援のために募金活動をしてくれた生徒たちは皆、大きな声で呼びかけをしてくれていました。両者の違いは何でしょうか?

 

苦しみの渦中にありながら、叫ぶことができない人々がいます。大勢。しかし、自分のことなら頭を下げられない人でも「誰かのために頭を下げることならできる」ものです。誰かのために働くとき、大切な人々の矢面に立とうとするとき、その人には勇気が与えられるからです。

 

ボランティア等、誰かのために自分を活かせる活動に「本気で取り組む」人は、自分の召命のヒントを得ることができます。具体的には、自分がどんな状態において「安心・喜び・勇気・満足…」を得られるのかを知ることができる。

 

ところが、本気で取り組まない人々に自分の召命は見出せません。やらされている人々が何も発見できない一方、本気で心を込めて取り組む人々にはどんどん新しい世界が開け、自分を活かす方法を次から次へと見つけ出すことができるようになるものです。

 

来週は中間試験ですね。試験、やらされていませんか?ちょっと、本気で取り組んでみませんか?