朝の話|阿部神父
2025年11月13日
『老子』の衝撃
古代中国の古典『老子』。81章の文章から構成される呼びかけの書。いまから40年も前のことですが、1985年、高校二年のときから『老子』を大事に読み返しています。いまも枕元に置いてあり、毎日読んでから眠りに就きます。『老子』の文章はすごくしっくりくるので生き方の基本方針となっています。衝撃です。特に好きな箇所を引用しておきます。
「第38章 高い徳を身につけた人は徳を意識していない。そういうわけで徳がある。低い徳を身につけた人は徳を失うまいとしている。そういうわけで徳がない。高い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはせず、しかも何の打算もない。低い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはしないが、しかし何か打算がある。」この箇所を読んでから、何らかの計算をしてもうけようとせず、つまり打算をいだかずに、ただひたすら自然体で生きることを目指そうと実感しました。純粋に生きるときに、人間は立派な者になれるのでしょう。私にとって研究に打ち込むときが、そうです。純粋に研究が好きだから、もうける意図などないからです。本当の人間になれるひとときです。
「第63章 なにも為さないということを為し、なにも事がないということを事とし、なにも味がないということを味とする。小さいものを大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱う。怨みには徳でもって報いる。難しいことは、それが易しいうちに手がけ、大きいことは、それが小さいうちに処理する。世の中の難しい物事はかならず易しいことからおこり、世の中の大きな物事はかならず些細なことからおこるのだ。そういうわけで聖人は、いつも大きな物事は行わない。だから大きな物事が成しとげられるのだ。」この箇所を読むと、何だか本物の生き方が見えてくるように思えてならないのです。