2025年06月12日
巡礼のこころ——希望をもたらす者になる
サレジオ学院イタリア巡礼の企画で1981年末から82年始にかけて中学一年の少年が海外で年明けを経験した出来事は、思いもよらない恵みでした。あのとき私は無意識のうちに「巡礼のこころ」を経験しました。祈りながら旅する歩みを異国の土地で学びました。
仏教徒がキリストに従う決意をしてキリスト教の始まりの土地を歩きました。大切な相手を想って歩きながら祈り、相手のしあわせを祈りながら歩くという無限ループのまっただなかで、仏教的な無の境地とキリスト教信仰の闇夜のゆだねの祈りとが決して矛盾せずに響き合いました。幼いころから無意識のうちに書物と絵画と音楽の響きのなかで育ち、その感覚的な味わいを携えたまま、私はヨーロッパに旅立ちましたが、発見したのは「祈り」の深みでした。同時に美術館や博物館でキリスト教関連の藝術作品を直に観ました。
昨年、教皇フランシスコは「希望の巡礼者」になろうと勧めました。各自が「希望」を実感して祈りつつ神と隣人とのつながりを大切にして冒険するように。その冒険は、これまで成長できないまま停滞していた私たちの日常生活を、これからは新鮮な明るさで満たす日々に変貌させようと望む88歳の祖父のような教皇の必死の想いから生じました。
さて、近年、ドラマやアニメの重要な背景となった土地を聖地としてあがめて訪れる若者が増えました。ドラマやアニメもまた藝術的な創作活動として理解すれば、その旅立ちは当然のことにすぎません。別段驚くべきことではありません。私はキリスト教藝術を味わう巡礼に出たのですが、他の方々はドラマやアニメの藝術性を味わう巡礼に出発するのでしょう。私はアニメは観ませんが、脚本も作画も音楽も編集もすぐれた職人の藝術の総合的な結晶であると考えており、尊敬の念をいだきます。ドラマも演劇藝術の一形態として理解して観るので、創り手たちの努力を丁寧にたどります。ドラマやアニメの聖地巡礼を好む人は相手の職人わざに気づくからこそ、何らかの本物を追いかけるのでしょう。