朝の話|鳥越校長
2026年06月16日
神の似姿である人間
試験前には放課後みんなで勉強しているみなさんの姿を教室でよく見かけます。黙々と勉強していたり、一緒に問題を解いたり、相手に教えたり。そこには独特の空気感があります。黙々と机に向かう背中には周りへの配慮、一緒に問題を解く声には絆、教える言葉には仲間への優しさ。自分の時間をちょっと仲間のために提供する心意気を感じます。
みなさんを見ていて、勉強とは、単に知性の鍛錬に止まらず、仲間を思う心や感性の成長のプロセスなんだなぁと改めて感じます。
ところで、仲間と一緒に勉強するとき、生成AIに質問する時とは何か別の感覚がありますよね。それは仲間がいるから頑張れる絆、時間と場所を共有している安心感だと思います。
実はこれは皆さんが心と身体を持っているからこそ沸き起こる感覚なのです。心と身体を通して他者と関わること、人間に固有な存在様式です。一方AIには心も体もありません。AIが逆に人間の心の身体の輪郭を描いてくれます。
キリスト教はさらにそこから踏み込み、心と身体を通して他者と関われることが神様の愛に由来していると考えます。そしてそれを「人間は神様の似姿である」と表現します。仲間と一緒に勉強してあげる、わからないことを教えてあげる時、みなさんの魂の中には神様が宿っています。自分のことを差し置いて他の人のために何かをする時、関わる時は、神様につながり、神様の愛に触れる瞬間なのです。
AIは一番優れている家庭教師かもしれませんが、絆も愛情もありません。AIの存在は人間の尊厳と特徴に気づかせてくれているのです。
教皇レオ14世は先日発布された『マグニフィカ・フマニタス』という回勅で「スピードと断片化が重視されている時代においても、人は優しさに満ちた言葉と手を求めています。デジタル文化はつながりを増し、交流の新たな機会を提供しますが、人間の心は真の親密さを希求します。孤独な人と過ごす時間、貧しい人への奉仕など傍にいることは大切なことです。すべての人の身体が神の住まいであり、聖霊の神殿の印であります。」と語っています。
(教皇レオ14世 回勅『マグニフィカ・フマニタス』(2026年5月13日 ローマ)239項 参照)
